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地球は暴走温室効果の瀬戸際

地球は暴走温室効果の瀬戸際

五章 その2



人間はこの地球の支配者でも管理者でもない

ユダヤ・キリスト教の伝統的精神によると、人間によって自然を支配し管理するという考え方と合理的な精神は高い価値を与えられ支持され助長されてきた、これらの教えの元となった、唯一絶対神は至高の理性と究極の力の象徴であり、その神は世界に掟を課す事で世界を支配しているされており、西洋の学者の探し求めてきた自然の法則は、神の作った掟を表現しているものだと、考えられてきた。しかし現在になってこれらの思考や論理によってはこの自然と世界を理解することは不可能な事になりつつあり、人間が自然を支配し管理することなど出来ないし誤りである事が明らかになりつつある。

人類はこの地球は人類の物でもなく支配者でもなければ管理者でもない。人類はつい最近まで我々はこの地球の自然を支配し、自然を人の都合の好いよぅに変える事が出来ると思っていた。我々は貧困と戦い、医学は病の征服を目指し、科学は自然を理解し征服できると誰もが信じていた。しかしそれは明らかな幻想である事を人類はその身を以て知りつつあるようだ。それは自分の靴を引っ張り上げて空を飛ぼうとする事と同じ事だったのだ。人間と自然は分離する事が出来ない一つの体なのだ。人類はこの地球を神から運営を任されている訳でもないし、白紙委任状を貰っている訳でもない。


聖書に書れている(人は自然を征服するであろう)と言う一節は明らかな誤りである。
人類がこの地球上で好き勝手に振舞うことなど許される事ではない。人間が自由にする出来ることの出来る自然など何一つない。石油や石炭等の地下資源といえど、それが地下になければならない理由がある。そこにある草木一本といえど、そこにそれがある事はそれなりの意味があり、そこに存在すべくして存在している。それを人が勝手にそれを乱すことは赦される事ではない。

愚かなる人間が、自惚れ自然を征服したつもりで、自分自身の都合の好い様に変えた結果、あの草も木も生えない広大な砂漠だけが残った。自然が気候調節のため長い年月をかけて地中深く埋め込んだものを、人が勝手に資源として石油や石炭を掘りだし燃やし続ける結果、酸性雨によって先進国の森林は消滅しつつある。空気中の炭酸ガスは増加しその温室効果によって、この地球上の温度が上昇し南極大陸やグリーンランドの氷が融け、


海岸の都市の殆どが水没するかも知れない。
これは人類の未来にはかり知れない影響を与えずにはおかない。この事によってどれほどの、まだ見ぬ未来の子供達が苦しみ、その若い命を断たねばならなくなるだろうか。

人間が自然を変える事が出来ると思うのは、自然といぅものを知らない人間の思い上がり。この地球を支配し管理する事など、とても人類の限られた知力と能力では、とても及ものではない。この人とその精神をも生んだ、この地球の自然は限りなく奥が深い。

専門化され細分化された、現在の化学技術的な手段で自然と、人類が迎えつつある困難を理解し、その解決策を打ち出すことは難しい。どんなに科学や技術が進歩したとしても、人間が生命を自然を理解し支配する事は不可能に近い。これだけは人知の及ぶところでないようだ。人がこの自然を征服することなど出来ることではない。人は自然一つになり自然と共に生きる以外生きる道はない。本当に自然を征服してしまったら人は生きてゆけない。何も知らなかった人類は、今まで人は支配者として、まさに傍若無人に振る舞ってきた、そのためどれほどの貴重な生命が人々の無知のために絶滅しただろう。さらに今後数十年の内にさらに数十万種の生命が失われるだろう。この事は未来において大きな禍根を残す事になるだろう。人類が自分自身さえ生き残ることが危うくなって来たのだ。生命の多様さを失う事は人の神経細胞を失うのと同じような意味がある。

一つ、二つの生物種が失われても、自然界においてはその意味は表面にはあらわれないだろう。それが何万何十万となったらそれは人にとって、半身不随にも等しい障害が現われるだろう。その失われた生命は二度と元に戻らない。多数の生物種が失われた結果これからは、人の予測し得ないような各種の影響がこれから表面化てくるに違いない。エイズの流行もその一つに思えてならない。生命は資源ではない、どんな生命といえど人が勝手に処分できる生命はいない。それは必要不可欠な私達の体の一部と同じ物なのだ。それ無くして生きて行けない外部にある臓器であり器官。全ての生命にとって自分たち以外の種の全てが、それ無くして生きて行けない外部にある臓器であり器官、それは人類とて例外ではない。全ての生命は他の生命が居なくては生きて行くことは出来ない。全ての生命にとって利己主義的な生存法は存在し得ない。人類がこれまでのよぅに自分自身のことだけしか考えないとしたら、人類はこの地球で生きて行くことは出来ない。人類はこの地球の支配者、主人、管理者として振る舞うのでなく、彼らの仲間そして目無き彼らの目、耳無き彼らの耳、口無き彼らの口、そしていきとし生きるもの全てのものの心となるのが人の宿命であり、人類がこの地球上で生きるただ一つの道。



自己中心の生き方はとても危険な生き方。

この地球は一つの生命体です、人類もこの地球に生きる生命のひとつです。しかし現在の人類は、自分勝手に増殖を続けるガン細胞です。この地球という生命体を死滅させ、そして自らも死んで行くガン細胞です。この自己中心そして人間中心の思考は、人類とそれを支える何百万種もの生命を絶滅させ、この地球の生態系をを破滅させ、人間自身を滅ぼします。人類だけの繁栄など、何の意味も無いし、淋しく惨めで、とても危険な事です。

人間の事だけを考えるなら、それは人間の為には決してならない。長い時間で物事を見た場合、自分だけの事を考えるなら、それは決して自分の為になりません。それは家族にも国家にも、そして人類社会にもこの地球にも、大きな損害を与える事になる。人間は自分自身のその欲望を犠牲にし、この地球に棲む全ての生命との共生と調和によってしか、この地球で生きて行くことは出来ません。

現在の世界の混乱の源をたどればそれは最後に私、私だけという最も基本的な観念までさかのぼる事が出来る、現在世界で起きている状況は、この私という観念そのものが問われており、全ての人々が伝統的に持ち続けてきた、その観念が誤りである事が、明らかになりつつある。一人一人の個人が自己への認識に、誤りがある事を知らなければ、いま人類が集団自殺へ、歩みつつある流れを止めることは出来ない。今や人類は個人主義的世界観そして、思い上がった自己中心の世界観を放棄しなければ、この地球上で生きていく事が出来なくなる。このまま自分本意な考えを、改めることが出来ないとしたら、ノストラダムスや過去幾人もの預言者が予言したとうりの道を、人類は歩まざるを得ないだろう。私達は彼らの真意を誤解しています、かれらは本当に人類が絶滅すると考えていた訳ではなく、傲れる人類に、警告をする意味でその予言をしたはずです。

神も仏もあるものか、自分さえ良ければ自分達さえ良ければそれでよい。誰も見ていなかったら、誰にも分からなかったら、他人に迷惑がかからないなら、何をやったって構わないじゃあないか、というのがと言うのが大方の日本人の考えです。日本の政治と行政の非人道的な性格そして非能率さも、道徳的な退廃と我々に公徳心の欠るのも、此処に源があります。我国の学校における陰惨ないじめや、そして世界中の人々から叩かれ嫌われるのも、我々のこの幼稚で傲慢で、自己本意な考えにその源がある。

何年か前の新聞に、世界の若者達の意識調査についての記事が載っていたが、その中で日本の若者が、自分さえ良ければそれで良いという、自己本意な考えの持ち主が世界のどの国の若者より高い比率を占めていること報じられていた。これは学生だけの問題ではなく我国の人々の無自覚、無責任、無関心の三無主義的な性格が、その子供にも現われているに過ぎないのだ。しかしこのような現象は我国だけの現象ではなく、先進国と後進国を問わず世界のあらゆる、国々で起っている現象なのです。世界における様々な混乱や破壊の源は、人間の心の混乱と荒廃、そして人間の心の在り方に、誤りが有るからなのです。

自分の事だけしか考えない人生を送るとしたら、真の幸福も知る事も無く、愛について知る事もなく、この世に生きて在るる事の意味も、そしてその歓喜を知る事もなく、その人の人生は暗く惨めで、ひどい人生を送ることになるでしょう。そして人生の黄昏どきになって、その事に気が付いてももう時は遅く、青春は取り戻すことは出来ません。そのような人が筋違いの、あの世での幸福を願う事になるのです。自分の納得する人生を送ることが出来なかった、人々が来世に夢を託すのです、何せその人はこの世の地獄を生きてきた人ですから。

自分だけの事を考えるなら、それは自分のためにならない。たしかにその時だけは、得をした気分になることは事実です。そしてそのよぅな考えが、人の心の奥深く根付くようになります。しかし人々が陥りやすいこの思いが、未来の子供達を破滅へと、導く源である事に、気付かなければならない。今世界中で起きつつある様々な破滅への、不吉な兆候は、人々の独り善がりな傲慢な思いや、自分本意な考えや他の生命達を、軽視する事から来る事に気付いてほしい。

私達の一人一人の人間の全てが、この事に現在気付かなければ、人類は数えきれない程の他の生命を道ずれに、極短い期間で絶滅してしまうでしょう。もう何をしても手遅れで後半世紀か一世紀しか、生き残る事は出来ないと、予言する学者や研究者も少なからずいるのです。そしてそれには科学的な根拠も有る事なのです。もし近い将来私達が阿鼻叫喚の事態を迎えるとしたら、それは私達自身の幼稚さと、傲慢で自己本意な思考と行動の結末の、当然の報いである事を知るべきです。私は人類が半世紀や一世紀で、絶滅するとは考えたくもありません。しかしそれは一人一人の人間の、思いと行動次第です。つまり貴方という人間の思いと行動次第で、人類の運命は決まるという事に気付くべきです。

長い人生を考えるなら、自分本意な考えは結局自分のためにならないのと、同様に人間のことだけを考えるなら、それは決して人間の為にならない。もうかなり前の事になるが何処かの国の宰相で、人の命は地球より重いという、迷文句を残した人がいましたが、これが一国の宰相ともあろう人が、言うべき言葉でしょうか。私だけは特別、人間だけは特別という思いは、誰もが持っている思いですが、この考えはとても危険な幻想です。

この地球は一つの生命体です、人類もこの地球に生きる生命のひとつです。しかし現在の人類は、自分勝手に増殖を続けるガン細胞です。この地球という生命体を死滅させ、そして自らも死んで行くガン細胞です。この自己中心そして人間中心の思考は、人類とそれを支える何百万種もの生命を絶滅させ、この地球の生態系をを破滅させ、人間自身を滅ぼします。人類だけの繁栄など、何の意味も無いし、淋しく惨めで、とても危険な事です。

人間の事だけを考えるなら、それは人間の為には決してならない。長い時間で物事を見た場合、自分だけの事を考えるなら、それは決して自分の為になりません。それは家族にも国家にも、そして人類社会にもこの地球にも、大きな損害を与える事になる。人間は自分自身のその欲望を犠牲にし、この地球に棲む全ての生命との共生と調和によってしか、この地球で生きて行くことは出来ません。

人類はこの事に否応なくこの事に気付くでしょうが、そうなって気付いてももう遅いのです。人類は何の罪もない数百万種の生命を道連れに、絶滅への止まる事の出来ない急な坂道を、まっしぐらに転げ落ちているいる事でしょう。この地球に生きる全ての生命にとって、利己主義的な生き方では生きて行けません。それは人間にとっても例外ではなく、人間中心の世界観では、この地球で生きて行く事は出来ない。人類はこれまでこの地球の支配者であると錯覚し、まさに傍若無人に振る舞い、幾多の生命を追い出し、殺戮し絶滅させて来たのです。その結果として残ったのが、草木も生えず人も住む事の出来ない広大な灼熱の砂漠と、現在の人類が迎えつつある、あらゆる方面における破局的な危機です。

人間は、この地球の支配者でもなく、管理者でもありません。人間は他の生命の助けが無くして、この地球で生存する事は出来ないのです。現代に生きる人々の持つ自己中心そして、人間中心の世界観と傲慢さを捨てて、謙虚に自分自身と人間の真実の姿を知り、この地球に住む全ての生命との共生によって、一つの生命体となって生きる事でしか、この地球上で生きて行くことは出来ません。


人はなぜこの地球に誕生しなければならなかったか。
人は今、自分は誰かを、人がなぜこの世に生まれたかを、人の使命は何かに気が付いた。あのエデンの園を追われて以来どれだけ年月が経ったのだろう。長い求道の旅だった。

あの生れ故郷に帰ろぅ、高い峠はある、越えることは出来るだろぅ。人が人として生まれてきた事の意味は、ただ自己のため生きる事ではなく、もの見えぬ彼らの目に、口無き彼らの口に、耳無き彼らの耳に、彼らの心となり、彼らと共に生きる事に喜びを見いだし、生きとし生きるもの全ての生命を、慈しみ導き育む事にある。

 

人はなぜこの地球に誕生したのでしょうか?。人類が存在することの意味は何にあるのでしょうか?。珊瑚がこの地球にとてつもなく巨大な珊瑚礁と石灰岩を残したように、

人はこの地球を鉄とコンクリートとアスファルトで、この地表を覆ってしまうためにこの地球に生まれたのでしょうか?。それとも増えすぎた植物の天敵として生まれたのでしょうか?。余りにも種類の多すぎる、この地球にすむ生物達を間引きし、少なく整理するために人類が必要なのでしょうか?。人類はこの瑠璃色に輝くこの地球を生命の住めない不毛の砂漠の惑星に変えあるいは、どんな生命も生きる事の出来ない灼熱の惑星、金星のようにする、単なるガン細胞でしょうか?。私達の所有しているこの土地や、あの森は本当に私達の物でしょうか?。自分の土地だったら自分が好き勝手にどのように使おうと構わないのでしょうか?。無数の生命が長い年月をかけて築きあげた、この貴重な土を、

人の都合で生命が二度と使うことが出来ないようにして良いものでしょうか?。あの森の雑木林を切り倒し、そこに住む生きものたちを追い出しても構わないのか?。

あの森は人のものではない、この足の下の土も人のものではない。この地球にある自然は、人の物でなくこの地球に生きる全ての生命のもの。あの森もこの土も、母なる女神ガイアから借りたもの、人はいずれそれらを返さねばならない。人が自分自身で生きて行くための、術を見付けたら、母に返さねばならない。人は今その生きるための術を見付けた、もうあの森の木もこの土も、好き勝手に処分する事はもう許される事ではない。

あの森もこの土は数えきれない程の命が、数えきれない程の年月をかけて作り上げたもの。それはすべての生命が生きて行くために、必要不可欠な物、断じて人だけの物ではない。どのような生きものでも人が勝手に処分できる生命はない。一匹の虫、一本の草、一握りの土さえも可能なかぎり殺してはならない。この地球上の生命全て合わせて一つの生命、その構成員一つ欠けても完全ではなくその一つ一つに存在の意味がある。自然はそれだけで完全だ、本来なら何もなされるべきではない。だが人類が犯した、過去の罪は償わねばならない。人は昔森林だった場所を荒野に変え、草原だった沃野を砂漠に変えてきた。使わなくなった耕地は、自然を復元し自然へ返し、荒野には植林されるべきだ。    砂漠を緑に復元する試みは、その当事国と先進国が、それぞれの国の利害を超えこれから人類が為さねばならない大きな課題だ、その砂漠を生み出した源は、その当事国だけでなく、北の先進国にもその責任はあり、その責任を回避することは許されることではない。それがこれから数百年にわたって続けなければならないことだ。

ただしここ百年の人類の経験したことのない、危機を乗り越えての話だが。私たち人間は今まで他の生命に対して剰りにも無神経であり過ぎた。自分たちのペットと同じくらいは他の口利かぬ生命に対して心使うべきではないか。全ての生命への心遣いこそ人の宿命なのではないか。もうこれまでと同じ態度をとる事は出来ない、もう人は十分に成熟した。人間の種としての完成は近い、他の生命の生きる権利を保証しよう。全ての生命に生きる場所を与えてあげよう。この地球に生きる生命に本当に害のある生命はいないのだから。ひとつの例外を除いて、その一つの例外はもちろん人類なのだが。彼ら無くして私達は生きて行けない。人間が変えなければならない視点は、私そして私達あるいは人間の為という視点でなく、生命全てという立場からの視点なのだ。私だけの為という思いは私の為にならない、人だけの為という思いは人の為にならない。私達の払われるべき努力の全てがあなた自身の為でもなくあなたの子供達だけの為でもない、人類だけの為でもない。

この地球上に住む全ての生命のために為さねばならない。

今人のしなければならないことは、全ての生命のために奉仕すること。そうすれば彼らは限りない恵みと安息を与えてくれる。人が今までしてきた収奪行為によっては、人は生きて行くことは出来ない。ギブ、アンド、テイクは人と人の間だけに成り立つ行為ではない。全ての生命の間で成り立つ、全ての生命は他の生命と共生関係にある。人は全ての生命とのに共生によってしか生きて行くことは出来ない。この地球に生きる全ての生命は一つの生命体なのです。人類はその一つの器官であり私はその一つの細胞なのです。

この私のこの体この心この命は、本当に自分の物だろうか、私のこの体は幾百万、幾千万数えきれない程の命の犠牲のうえに成り立っている。そしてこの心はこの意識は私が一つの細胞から現在に至るまでの、私が認識したもの全てより成り立っている。

たしかにこの体は私の両親が生んだのは間違いない。この体が無ければ私という意識は存在し得ないのは間違いない。だがこの私という意識は私の両親が生んだのではない。

自分自身の関係と周りの物、全ての関係ががこの私に心と意識を与えたのだ。それら全ての物がなくては私という存在は無かったのだ。私たち人間の意識も心も、本当は彼らの物、断じて私達だけの物ではない。私たち人間は、彼らの目であり、耳であり、彼らの口であり、そして彼らの心であり意識なのだ。私自身の物など何一つない、それに気づかぬ処に人の不幸があり、人類が迎えつつある問題の全てがある。


意識と心について

生命の誕生前から、心の萌芽とも言える現象は存在しただろう。それが生命を生み生命を育て進化を促し、そして最終的には人の持つ意識へと、進化させてきたのではないか。

生命の進化の歴史は、その心の進化の歴史だったとも言えるだろう。

私のこの意識は私だけで終わる筈なのだが、私のこの心は私のものであって私のものでは無く、この地球に最初の生命の誕生から無数の生命によって連綿と受け継がれ、途切れる事無く数十億年にわたって存在し続け、そして悠かな未来へと続く存在の一部であり、自らを導き自らの道を歩む者そして存在するすべての者を導く者の一部でもある。生命は物質の花、心は生命と物質の織り成す関数あるいは関係の生み出す波動。心ある者は人間だけでなく、心ある者と無いものの境界はない。突然人間にだけ、意識や心が生まれたのではない。人間だけが心を持つものでもない。心とも言える性質は、人間や高等な生命にだけ存在するものでは無く、その階層にや性質に違いは有っても、全ての生命と物質に見つける事の出来る、普遍的な現象であり、心を持つ生命と物質を分ける境界はない。

思考をする生物は人間だけでなく脳を持つ生物だけでもなく、植物や単細胞の生命すら化学的あるいは代謝的なな思考をする、その思考は我々が幾多の論理的な言葉を使って行なう思考よりも、何万語もの言葉を費やして説明する事よりも能率的で本質的な思考方法なのかもしれない。それでなくては此れ程複雑な生命はこの世に誕生することも、そして人間に至まで進化して事は不可能だっただろう。ミクロのレベルではこの化学的な代謝的な思考こそが一つの細胞から60兆の細胞を持つ人を人とし、生命を進化させる原動力となって来たものではないだろうか。その遺伝子は遺伝子は代謝的な意志や思考の空間の設計図であり、即ちそれはその生命の心のそのものの設計図ではないだろうか。代謝的な意志や思考はその空間の中を自由に動きそして流れる、その結果として様々な生命現象が起こっている様に思える。その細胞の意志と思考の空間つまり心はその内側の何百万もの様々な物質に対して時には淘汰をし時には導く者として物質自身の進化を促して来ただろう。

それぞれの生命の表現形態の違いは心の表れ方の違いはその心の表れ方の違い。生命の形態はそれで一つの心の状態を表現したもの。思考とも言える現象は私達の心のレベルから、さらに上位の生命圏のレベルまで存在しこの生命圏内で起こる、現象の一つ一つは、


その全体の意志や思考の断片とも言えるものではないだろうか。

生命の集合体として様々な関係の集合体としての生命圏は、全体で一つの心とも表現可能なのでないだろうかか。またこの地球を一つの生命圏とするとする、生命圏のなかで起こる一つの現象は、この地球の全生命の一つの意志や思考とも言えるものである。この生命圏全体もまた導く者であり淘汰するものでもある。

人類ははその導く道を数百万年の長い年月をかけて進化してきたして来た。それから少し外れた我々の仲間はどれほど淘汰されただろうか。この地球の支配者を自認する人類も、この意志を無視して生き続ける事は出来ない。それを無視する生命は必ず淘汰される。

人間とて例外では有り得ない。今度は我々が我々自身の心の在り方が、淘汰の対象となっている事にどれ程の人が気づいているだろうか。この地球ではその中で人間としての役割を見出し生きる以外に道は無いと知るべき。

 

この世の形有るもの全て、あなたが見る事聞く事の全てが、そして認識し得るもの全てが私そして貴方という意識を作る。人が一つの細胞から分裂してその間に起こる細胞同志の関係とコミニケーション、それと母体との関係そして、さらに外部との無数とも言える関係が、心と意識を生み出し成長進化させる。意味が無いようにもものであっても、心を豊かに育むには必要不可欠なものなのです。私達はこの世に存在する、全てのものに対して敬意を持って接しなくてはなりません。それが奇跡の存在としての私や貴方の義務でもあります

 

 

顔は心が作り上げるもの、しかし顔について言おうとしているのではない。当たり前の事だが顔が世の中を動かしているのでもない。問題なのはその中身の人間その体に住む心の問題なのだ。その人の顔はその人の心の状態を写す鏡みたいなものなのだ。その体はそれを導く心そのものが作り上げたものだからだ。

 

 

人の頭の頭が有史以来小さくなっているのは、人が文明化してきたことと無縁ではない。それは人間自身が作り上げてきた外部世界が、人それ自身が自分自身を進化させてきた者を破壊し、追い出し単純化させてきた。そのために人間のその頭脳の一部が使わなくなり不要化し退化し消滅しているのではないか。そのために人間の脳が小さくなりつつあるのではないか。家畜化された動物の頭脳が、野生の動物の頭脳より小さいのは明らかになっている。

 

私達の生きるこの地球の生命圏を構成する生命の私達と、その体をを構成する一つ一つの細胞の中の、DNAや蛋白質等様々な有機物質の関係と、私達の意識と心を構成する様々な思考はその階層や形は全く違うものだがよく似た現象に見える。一人の人間の心の誕生と発達、そして生命の誕生も進化という現象も、この現象と無縁ではあるまい。私達の持つこの思い、この数え切れないほどに様々な思考そのものが、人類を導きそして人類の未来を人類の生命しての、進化の方向さえも決めるのではあるまいか。

 

 

もし科学が進歩して人口子宮が誕生したとして、果たして子供は正常に成長して、人間として誕生できるかとても疑問に思う。またそれで正常に誕生した人間の子供であったとしても、生きて行くための栄養物は自動的に与えるとして、その他の外部からの刺激を全く与えない、としたら心を持ち自己意識を持つ人間として、果たして育つだろうか。このような何もない空白の世界で夢さえも与えないとしたら、人間は意識さえも持ち得ず極短い期間で死んでしまうだろうと思う。私達の心は自分自身との関係そして外部との様々な無数の関係が、あるからこそ私達は意識を持ち人間として存在できるのだ。

 

心を失った民族は滅びるしかない、心を失った人類は滅びるしかない、人の心も人の生活環境も文明化共に次第に単純化し荒廃しつつある。人々は都会の生活のなかで孤独になり自己本位の考えしか出来なくなっている。人間としての心を失い始めている、人の心が荒廃すれば社会も荒廃し滅亡する事は避けることは出来ない。そして最後には人類そのものも滅び去るだろう。



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